映画「天地明察」で使用された背景画の制作工程です。
巨大障壁画
襖絵や屏風などの障壁画は、建築の一部であると同時に装飾であると同時に美術作品でもあります。
徳川光圀の江戸城本丸大広間の三方の壁を埋め尽くす障壁画というのが今回のテーマです。およそ高さ3.5m全長18mの壁面です。壁面ですが、実際は巨大なパネルです。なぜかというとこれは本当の内装ではなく、映画のセットだからです。
この映画は2012年9月現在ロードショー中の作品( 天地明察 2012年9月15日公開の映画。 監督:滝田洋二郎 / 美術監督:部谷京子 / 製作:「天地明察」製作委員会 / 配給:角川映画/松竹)です。
この映画にはたくさんの障壁画や美術品が登場します。最初は美術製作スタッフのヘルプとして依頼されました。最終的に「これ描いてね」と指令を受けた巨大障壁画は難易度が高い上に映画のシナリオ的にも美術監督の思い入れ的にもきわめて重要なものだということで、単なる助っ人ヘルパー気分では済まされない事態であると認識できました。
美術監督によるデザインパースは多量を極めていました。その物量とデザイン力は一流です。
担当することになった障壁画は狩野永敬の作品をベースにした紅白梅図でした。デザインパースを前に打ち合わせて、意図するところや効果を得るべきところなどを確認します。美術ひとつひとつに設定とストーリーがあり、意味と目的があります。それを理解した上で、美術監督のデザインをどのように実際の作品として作っていくかを詰めていきます。制作期間や日程が明らかになります。
手の早さが自慢の私も作業期間の短さにのけぞりました。いつもの長期存続前提の壁画と違い、一つのシーンの背景に過ぎません。レンズ越しに、役者の背景として映ることが目的なのです。大量の美術セットの中の一部なのです。撮影開始までわずかの期間しか残されていないのです。とてつもない短期間にとてつもない大きさの障壁画を描かねばなりません。
さっそく大急ぎで原画を作り始めます。
原画を描く
原画を描くと言っても、美術監督のパースのイメージをより具体化するという作業です。一見簡単そうですが何しろ完成作品の巨大さが並じゃありませんから原画サイズだと精密なものとなります。
大広間の三方の壁に相当するコの字型のロケーションです。真ん中には太い幹が、両翼には伸びた枝と花を入れます。問題となるのは両翼の枝ぶりです。
両翼の枝ぶり
コの字型の壁画は、主に正面からカメラに捕らえられることになるようです。ここで普通に枝を描くとどうなるか、正面から捕らえたときに、パースがかかって両翼の左右サイズが縮まって見えます。
もしこれが本当のどこかの部屋で、観る人が中に入って自由に鑑賞できるような作品だとすると、普通に描いて何の問題もありません。作品サイズも大きすぎますから、誰ひとりとして全体像を俯瞰する人はいないわけで、きっちり内容を描けていればいいわけです。
ところがこれは映画で映る絵です。四方の壁のうち一方には壁がなく、遠目にカメラが入ります。つまり、巨大であるにもかかわらず、映像では全体を俯瞰することが可能なわけです。
遠近法によって、正面の壁に対して左右の壁は変形して見えます。左右両翼に描かれたものが水平方向に縮んで見えるわけで、これはあまりよろしくありません。いえ、それでもいいんですが、ここで一工夫加えることで不思議な効果を生む作品を作ることが出来ます。
遠近法を利用した構図
遠近法のゆがみを前提に、ここでだまし絵というかトリックアートの技法を多少導入することを思いつきます。遠近法のゆがみを吸収するかのように、左右両翼の絵を水平方向に伸ばした構図にするのです。
これにより、コの字型の壁の正面から俯瞰するとき、左右両翼に配置された絵(この場合、枝)は真ん中の幹とのバランスを保ち、三方にまたがる構図にもかかわらず、比較的正しいバランスを保つことができます。それだけじゃなく、支持体から絵が浮き出して見えるような効果も伴います。これがトリックアートのパースマジックです。これを利用してやろうという計画を立てました。
遠近法を利用しない構図
ただしパースマジックに浮かれていてはなりません。なぜなら、カメラの位置は一定しないからです。ガチガチのトリックアートは基本的に「指定したある一点」から見るパースに準じます。この部屋でどのようなシーンがどのように撮影されるのか知りません。俯瞰するシーンだけではない筈だし、そもそも俯瞰シーンがあるかどうかもわかりません。
よってパースマジックはほどほどにせねばならないということが明らかです。
バランスを取る
そこで、最終的な判断としては、パースマジックを露骨でない程度に含ませることにしました。
つまり両翼の枝ぶりを、実際の想定より水平方向に伸ばし、なるべく縦方向の動きを押さえ、端に行くほどオブジェクトを小さめに描くということを基本にしながら、それが目立ちすぎないような形に仕上げるという結論です。上図の例では、ちょうと中間くらいを目指すということです。
パースの効き具合を想像しながらバランスを取り、原画を作りました。
この原画を美術監督に提示してあれこれお話しして、概ね決定稿としていよいよ実制作に入ります。
実制作の工程
今回、原画は比較的詳細ではあるものの、構想図の域を出ていない仕上がりのものとなりました。まず何よりも時間が限られていたため、ゆっくり原画を煮詰めているゆとりはありません。パースの効き具合も様子を見つつある程度現場で作っていく必要があります。
ベースの金箔は施工済みです。ここから絵を描き始めます。
糸を張って当たりを取る
下書きを始める前に、糸を張って升目を作り、原画から下書きできるよう段取ります。
普段、もっと小さい絵の場合、あるいはもっと細かくて精細な絵の場合は下書き原稿の原寸サイズを用意してトレースします。精度は上がりますがコストも日数もかかります。
きっちりマス目を作って原画から絵を拾い、下書きを開始します。
下書き
下書きは木炭とチョークで行いました。
マス目で当たりを取っているとは言え、パネルを前にすると大きすぎて何を描いているのかさっぱりわかりません。ですがひるまずガンガン下書きを続けます。
白のチョークでハイライトを入れているのは完成を早めるためではなく、描かれた線が何の線なのかをわかるためです。手が届くほどの近くに寄ったとき、絵が大きすぎて描かれた線がどこの何の線なのか判らなくなるので、間違わないよう目安に入れています。
墨を入れていく
真っ黒でなく、少しグレーよりの黒を黒と設定して、これで墨入れをしていきます。絵の中で、輪郭線にあたる部分、原画では「線」にあたる部分も、原寸では大きな面となっています。
この「線である面」を塗りつぶす作業を行うとき、もっとも気をつけるのは、「塗られた面」ではなく「太い線」に見えるよう注意を払うことです。
ここで入れている墨は仕上がりの墨ではなく、下書きの清書という意味合いが強い作業となります。この最初の墨は作業を続けるに従い弱まってきたり混色による濁りが出てきたりします。そうした自然な濁りも後ほど効果として利用する手筈です。
白を加える
次は白っぽい色を用いて木の肌と空気の霞みを作っていきます。。何種類かの白を薄く希釈し、海綿などを使って何度も重ねてぼかしを表現します。
ここでエアスプレーを使っては絵画がイラストになってしまいます。ですのでスプレーは使いません。・・・と、言いたいところですが使いました。しかし、いかにもエアスプレーらしいボケ足は絶対に認めることはできません。時間短縮のためにスプレーは使いますが、その使い方には細心の注意を払います。あくまでも手作業による描画が軸で、スプレーは反則技的な使い方になります。
目が白に慣れて麻痺すると、うっかり白くしすぎるということになりかねません。白くなりすぎたらもう元には戻りません。したがって、塗り重ねを行いつつ頻繁に画面から離れて煙草を吸いに行きます。これにより目がリセットされ、集中力と判断力が向上し、冷静に画面を見て次なる手を明確にすることが可能となります。失敗が許されず集中力を継続させて行う作業のために最も必要なものは煙草です。
この段階では、枝の詳細や花の部分がまだ不鮮明なままです。原画の作成段階では大まかなサイズと当たりしか作っていないので、次の段階で花について進めていく必要があります。また、白が入ることによって失われた黒を再び持ち上げることにより、墨のパンチ力を上げていく作業となります。
墨を持ち上げる
中心となる幹の部分から墨を完成させていきます。前回の墨入れよりも丹念に、今度は完成した「線である面」を作ることになります。
もうひとつは、薄く希釈した黒で筆のかすれや墨絵らしい画面の肌を作っていく作業です。
このあたりは説明不能の描画工程となります。
多数の枝と花
太い木の幹を完成に近づけたため、枝の先や花をどのようなバランスで入れていくかが判断しやすくなっている状態です。そろそろ枝ぶりや梅の花となる部分を作っていけます。
紅白梅図における花の存在をどのレベルに持って行くか、ある程度覚悟と共に決めております。すなわち、勇気を出してちょっと派手目な色を置いてやろうと思っているのであります。
黒の上に、小さな金色を差し込んでいきます。墨の下から金箔の一部がせり上がって見えているという設定です。こうした細かい作業も組み合わせて進めます。こんなのは細かすぎて普通に見えることはないのですが、でもこの細かさが全体の品位を引き上げます。見えなくても見えているということです。見えてなくても「何となく重厚感がある」という印象に繋がります。
赤い梅の花も加えます。派手な赤を使います。もともとの絵の設定的に、花は細い丸筆を使って「てん、てん、てん」と色を差していった描き方を再現します。ですので実際に荒っぽく花の色を乗せています。
花と同時に枝も描き加えます。前後関係を作り、工程を全方向から進めていきます。
花は「てん、てん、てん」というタッチを意識して荒っぽく描いているものの、やはり実サイズの大きさという無視できない現実があります。花一つが結構な大きさになります。全体を引いて見渡すと確かに細かな花なのですが、かと言って現実的にサイズが大きく荒いままというのは、そのままでは気が収まらないというのもあります。
大雑把に花の位置を決定していった後は、花そのものに工夫を加えていきます。白い花には金で赤い花には白でグラデーションを付け加えます。遠目には見えなくても、やはりこうした細かな調整が全体の深みにつながります。
金を散らす
ベース部分は白で霞をあしらったままです。丹念な白を入れる作業でしたが、しかしこのままで済ますわけにはまいりません。
ちょうど良い大きさの平筆を用意して、金色を差し込んでいきます。これは、細かく正方形に切った金箔を散らす切箔という技法をフェイクで再現したものです。
切箔を模したこの描画で画面を埋め尽くします。白い霞みの部分とベースのクロスがすっかり馴染み、絵全体の印象も変わります。細かい描写が入る対比によって、大急ぎで描いたような荒っぽい描写が、まるで筆の勢いを持ったかのような力を持ち始めます。
調整して完成
あとは全体を眺めたり細かい部分を注視したりしながら調整を施します。全体を眺める時に重要なのは、斜めから俯瞰することです。例えば横にすーっと伸びた一本の枝があったとして、正面から見て何の問題もなく仕上がっているように見えて、斜めから覗き込むと線が揺れていたりする場合があります。前回で示した遠近法の作用によって画面全体の幅が縮んで見えることから、少しの揺れが大きなノイズになってしまうんです。
そういう部分を中心に、あっちこっちいろんな方向から眺めて、また近づいたり離れたりしながら調整を続けます。
この調整は時間切れ直前まで行いました。時間切れと言うより、ちょうど良い日数で予定通り仕上がったと見るべきです(強気)
大工さんが三方の壁のようにパネルを組み替えてくれました。パネルのつなぎ目などの微調整と修正を経て、完成です。
遠近法が作用する両翼パネルは、前回説明したように実際には水平方向に引き延ばしたデザインにしています。こうして正面から撮るとなかなかちょうど良いサイズに収まったのではないでしょうか。例えば梅の花の大きさもそれを意識して、手前に見える部分は小さく、奥のパネルに近い部分は大きく描いたりしています。
かりにカメラが中央に入って両翼パネルを正面から捕らえたとしても、それなりにぐいーっと横に伸びた迫力の枝ぶりが収められると思います。
2012年9月 細井尚登